本性寺雑記

本性寺雑記

本性寺開山・日達聖人

 本性寺開山・日達聖人は種子島に生まれ、京にのぼってご修行をされました。当宗の教線拡大にたいへんご尽力された高僧です。
江戸(東京)に当山本性寺をはじめ、谷中、妙泉寺、狸穴(まみあな・現在の元麻布)を開創したほか、当宗の本山のひとつ沼津岡宮光長寺を再興しております。この光長寺は、日蓮聖人が沼津岡宮方面に布教され、身延山に入山後の健治2年(1276)に、日春・日法両聖人へ岡宮の旧草庵の地に法華の堂宇を建立することを仰せつけられ、両聖人が仮の草堂を建てられました。
その36年後の延慶4年(1311)2月15日に一間四面の堂宇を完成したとあります。

 また寛永18年(1641)には細草檀林(住本寺、千葉県)を開創し、初世の化主として多くの子弟の教育に当たり、明歴元年(1655)には大亀谷檀林(隆閑寺・京都)の二世化主ともなっています。

本性寺開創

 本性寺は慶安4年(1651)智泉院日達聖人によって開創されましたが、その開創は江戸・横山嘉兵衛、伊丹・丸屋三右衛門、大阪・柏尾屋吉兵衛らの外護によったと『本能寺文書』に記されています。
日達聖人は、能興両山の祖、御開山日隆聖人の本門流八品派の流れをくむ高僧で、布教のため江戸、京都、兵庫を常に行き来していました。先述した『本能寺文書』によると伊丹の丸屋三右衛門の菩提寺は四大本山のひとつ尼崎本興寺となっており、本性寺の檀家ではありません。記録にはありませんが、柏尾屋吉兵衛も地理的にみて檀家では無いと思われます。東西を行き来して布教する日達聖人に深く帰依したことから、本性寺開創のおりの外護にあたったのでしょう。

本性寺山号

 本性寺の山号は千松山と称しますが、江戸時代末期ごろまでは千秋山とも称されていました。文政8年(1825)1月、幕府に提出された『文政寺社書上』(『地誌御調帳』ともいう)には、はっきりと千秋山本性寺と記されていますが、明治5年(1872)に提出された『本末一派寺院明細帳』には千松山と記されています。

当山20世・日勇上人と痔の神

 明治5年(1872)頃の本性寺は無住寺となっていました。これは神仏分離の布令により、太政官が秋山自雲霊神(ぢの神さま)を「神」として扱い、本性寺での安置を認めなかったことによるものです。この難題の解決にあたったのが、当山20世・日勇上人です。20世日勇上人も高僧の一人に数えられ、『日隆聖人徳行記』(3巻)、『法脈五聖伝』、『五山偉功諸聖伝』などを著述しています。また痔の神さまですが、全国の寺院に分霊祭祀しています。
北は秋田より感応寺(能代)、寂光院(大館)、大法寺(本荘市)、蓮住寺(秋田市)、蓮荘寺(大館市)、壽慶寺(本荘市)、妙泉寺(東京都)、上行寺、長久寺(東金市)、常照寺(富士吉田市)、久法寺(加賀市)、妙法寺(福井市)、久成寺(越前市)、本勝寺(敦賀市)、大乗寺、本成寺(京都)、岡松寺(大阪市)、慶住院(高槻市)、大隆寺(枚方市)、本妙寺(宝塚市)、本光院(神戸市)、妙法寺(徳島市)です。