本性寺の歴史

本性寺の歴史

開創 本性寺のはじまり

 千松山本性寺は、もとは千秋山本生寺ともいい、慶安4年(1651年10月智泉院日達聖人によって、武蔵国豊嶋郡浅草今戸(現在地)に開創されました。
この本性寺の境内地は、そのむかし日蓮聖人が諸宗の僧らと問答を交わしたと伝えられる旧跡で、日達聖人がこのゆかりの地を有縁の地と定めて堂宇を建立したと伝えられています。

 「往古此地にして日蓮聖人諸宗と問答ありし故、是を橋場の問答と云伝えて、其旧跡のしるし今に扇のごとく芝を残し松一本あり、番神堂と本堂の間なり」-「江戸志」- 本性寺が開創された慶安4年(1651年)は、江戸幕府の基盤が確立された頃のことで、幕府は宗教統制策の一つとして「諸宗諸本山諸法度」を布告しており、本性寺は本能寺(京都市)本興寺(尼崎)の直末寺となりました。
本能寺の「能」、本興寺の「興」をとって能興両山といい、両山一首制をとっていましたが、現在は当山は本能寺の末寺であります。
明暦3年(1657)、日達聖人は能興両山の第23世となり、本能寺の本堂、祖師堂、番神堂などを再興して寺容を整えています。
万治2年(1660)、在山4年で山をおりた日達聖人は、江戸谷中・妙泉寺を開創し、7月1日、かつて自ら開創した狸穴・光隆寺(現在元麻布)で遷化されました。当宗の中でもその活動はめざましく、宗門隆昌に邁進された高僧といえましょう。
そして元禄15年(1702)、第4世日量上人は千松山本生寺・千秋山本性寺ともよばれていた寺号を現在の本性寺と定めました。

「  慶安4年10月創建 本性と本生ヺ用ユ 今本性ヺ用ユ 山号元千秋山ヺ用ユ今千松ヺ用ユ  」   寺院明細簿より

 日蓮聖人の「橋場の門答」の旧跡として扇形の芝の中に古松が植わっていたことから俗に千松山といい、いつのまにかこれが山号として伝えられていたのでしょう(『本性寺雑記』 参照)

江戸のまちとともに

 享保元年(1716)紀州の徳川吉宗が第8代の将軍位を継ぐと、庶民を震撼させた「享保の大改革」が行われます。とくに庶民に対する圧迫が激しくなり、各地で百姓一揆や打ち毀しが続発しました。またこの改革に追い打ちをかけるように大飢饉が諸国を襲い多数の餓死者が続出しました。所謂「享保の大飢饉」がそれです。

 享保9年(1724)3月、こういった時代背景のもと、本性寺は火災に罹り、諸堂宇は灰燼と帰してしまいました。江戸府内の寺院の大半は2ないし3回ほど火災により焼失しております。本性寺も延享3年(1746)、明和2年(1765)を含め3度焼失しておりますが、その度に歴代上人を中心とする檀信徒の皆様の外護によって再建されています。

 寛保元年(1741)、岡田孫右衛門(『庶民信仰と本性寺』参照)が痔疾に悩んだすえ薙髪して本性寺の題目堂に籠もり、読経唱題の日々を送りますが快癒せず、仏師に己れの像を刻させ、「痔疾に悩む諸人、題目を信仰すれば是を救護す」と誓願し、延享元年(1744)9月21日遷化しました。そして法号を「秋山自雲」と称して本性寺に葬し、その像を題目堂に安置しました。のち親族知己の者が痔疾に罹り、題目堂に祈念したところたちまち快癒したことから、その霊験あらたかなことが諸国に広まり、いらい参詣人があとを絶たなかったと伝えられています。

 延享3年(1746)3月、本性寺の諸堂宇は火災に罹って全焼しますが、第7世日生上人によって諸堂宇は再建され、6坪ほどの草堂であった題目堂も、「霊神題目堂」として建立され「秋山自雲霊神縁記(起)」記しました。

 宝暦7年(1757)、檀信徒の外護により寺容を整え当山を中興しました。このことから本性寺では、日生上人を当山中興の祖と申し上げております。また天保元年(1830)、五摂家の一つ、従一位左大臣・二条斉信公が痔疾を患い、大夫(中宮職)を本性寺へつかわし、「秋山自雲霊神」に代拝させたところ、たちまちのうちに快癒したことから、斉信公もその霊験のあらたかのことに驚き「功雄」と諡号を賜い、自ら扇額を霊前に奉納しました。また題目堂は天保11年(1840)7月に再建されたという記録がのこされていますが、これは二条斉信公の信施によるものではないかといわれております。

近代から今日まで  ( 今日の本性寺 )

 安政2年(1855)、江戸を中心に大地震が起こりました。「安政の大地震」です。この地震により本性寺は本堂が倒壊したという記録が残されています。慶応4年(1868)、江戸幕府が崩壊して明治新政府が樹立されると、神仏分離令が布告されたちまち廃佛毀釈運動が広まりました。本性寺もそれに巻き込まれ、宗教活動にまで支障をきたすようになり、明治5年(1872)頃には無住寺となってしまいましたが、斉信公の孫にあたる公爵・二条基広公の外護によって復興し、庶民から華族たちにまで崇敬されたと伝えられています。境内地には華族たちが休憩する館が建てられ、俗に華族屋敷とも呼ばれていたそうです。また『東京名鑑』(明治25年刊)や『新撰東京名所図会』にも「痔の神」を安置する本性寺について記しています。また日露戦争が終わり、庶民信仰が隆昌すると、本性寺は「痔の神のお寺」と呼ばれ境内は参詣の人々があとをたたず、「秋山自雲霊神」がご開帳される毎月21日、正五九と呼ばれる1月、5月、9月の20日と21日の千巻陀羅尼修行のおりには、門前に市が立ったとつたえられています。

 大正12年(1923)9月1日に関東大震災が起こりました。地震により190万人が被災、10万人の人々が亡くなったそうです。当山も此の震災によって灰燼と帰しましたが、第二十二世の天然院日治上人のご尽力によって再興されたのでした。開壽院日利上人(大本山本能寺本興寺第百四世、光長寺五十四世)より当山の法燈を継承した弟子の日治上人(久野泰勉)は震災後の同15年に檀信徒とともに堂宇を再建したのでした。日治上人が昭和10年7月16日に遷化されてから後の同年8月に天明院日照上人(久野晃正)が法燈を継承しました。日照上人は沼津岡宮大本山光長寺五十七世、千本本光寺三十五世の日舜上人につき修学し当山の二十三世になられたのですが、第二次世界大戦が始まり、東京大空襲で再び当山は焼失してしまいました。幸い幾つかのご宝物などは疎開させてあったそうですが、ほとんどのものは焼失してしまいました。終戦後すぐに日照上人は仮本堂を建て、妙菫法尼と共に檀信徒を初め地域の人々の心の寄り所、心の安らぎの場としての『信仰の道場』を目指しました。世情も混沌としていて重苦しい暗雲が全国地域社会を覆っていましたが、そのような中、昭和32年(1957)檀信徒、総代、相談役をはじめ多くの外護により、本堂の再建に着手しました。昭和34年(1959)10月25日念願の本堂が建立され、落成慶讃大法要が大本山本能寺127世日宏聖人御親修のもとに盛大に厳修されました。日照上人は、昭和44年(1969)10月29日に遷化され、天譲院日瑞上人が25世の法燈を継承しました。その間、日照上人の弟弟子・巧智院日陵上人(上行寺50世)を24世に迎え入山式を行いました。以後、仏祖三宝尊、宗祖日蓮大聖人、歴代各上人の冥助のもと檀信徒の皆様をはじめとする地域社会の方々のご協力により、昭和48年(1973)信徒会館の建立。墓地の整備、昭和55年(1980)5月25日には宗祖日蓮大聖人700遠忌を慶讃し日蓮大聖人銅像を建立。そして題目堂を再建いたしました。また平成4年(1992)に檀信徒の皆様や地域の方々にいろいろな事に利用していただくために千松閣という信徒会館を建立いたしました。また平成15年(2003)に山門ならびに参道を整備しました。平成29年、日瑞上人は、弟子の天桑院日謙(久野晃秀)に法燈を継承し、現在に到ります。

千松山本性寺略年譜

慶安 4年 1651 10月、日達上人、当山を開創市、千松山本性寺と号す
明歴 3年 1657 日達聖人、両山中興23世となり、本能寺を中興す
万治 3年 1660 日達聖人、谷中妙泉寺を開創し、7月1日に遷化す
元禄11年 1698 善兵衛(秋山自雲)生まれる
元禄15年 1702 当山、本生寺を現在の本性寺とす
享保 元年 1716 紀州・徳川吉宗、八代将軍位を継ぎ『享保の改革』を行う
同  9年 1724 火災に罹り諸堂宇灰燼と帰す
元文 3年 1738 善兵衛(岡田孫右衛門)、痔疾に悩み諸医に治療を受けるが快癒せず
寛保 元年 1741 善兵衛(岡田孫右衛門)薙髪して当山・題目同に籠もり、読経三昧にふける
延亨 元年 1744 善兵衛(岡田孫右衛門)、仏師に己の像を刻ませ、「痔疾に悩む諸人、
題目を信仰すればこれを救護す」と誓願す
同年9月21日、善兵衛(岡田孫右衛門)示寂 法号・秋山自雲。当山境内に葬し
像を題目堂に安置す。のち親族知己の者、痔疾に罹り、題目堂に祈念したちまち
快癒す。その霊験いちじるしく、諸国に広まり、いらい参詣人あとをたたず
延亨 3年 1746 3月、火災に罹り諸堂宇焼失
宝歴  3年 1753 9月、『秋山自雲霊神縁起』、日生上人によって記さる。
宝歴  7年 1757 日生上人、当山中興す。能興両山より一代色衣を賜る
明和 2年 1765 檀信徒の外護により堂宇建立。
明和 9年 1772 2月、江戸の大火(目黒行人坂の火事)。当山も再び類焼。
(安永元年) 1772 10月10日、当山7世・日生上人、寺容を整え中興す。
亨和 3年 1803 11月『秋山自雲霊神縁起』
天保 元年 1830 左大臣・二条斉信、痔疾を患い、大夫をもって代拝祈念す。たちまち快癒、功雄と諡号を賜う。
同 11年 1840 7月、題目堂再建
安政  2年 1855 江戸大地震。当山本堂倒壊す。
慶応  4年 1868 江戸幕府崩壊。明治新政府樹立。神仏分離令が布告され廃仏毀釈運動広まる。
明治 38年 1905 日露戦争終わり、庶民信仰隆昌す。当山も参詣人で賑わう。
大正 12年 1923 関東大震災。当山全焼す。
同 15年 1926 檀信徒の外護により堂宇再建す。
昭和 20年 1945 3月、当山東京大空襲禍により焼失
昭和 34年 1959 現本堂建立す。
昭和 48年 1973 本性寺信徒会館建立
昭和 56年 1981 日蓮大聖人700遠忌、宗祖説法像を造立し、題目堂を再建
平成   4年 1992 客殿千松閣建立。台東区区民斎場として地域の人々に広く使用される。